オリコン最高16位と、事務所始まって以来の好調な滑り出しとなり、
上半期新人女性アイドルとしても、田村英里子に次ぐ好成績であった。デビュー曲から本名で作詞をし、
アーティスト性の強いアイドルとして売り出された。
18歳というアイドル歌手としてはその当時はデビューが遅いということもありレコード会社の一つの戦略であった。
小泉今日子と当時の事務所の先輩浅香唯にルックスが似ていた。新人賞レースなどにも参加し、
序盤のメガロポリス歌謡祭では優秀新人賞を受賞したが、勝負曲である2ndシングルが伸び悩み、
音楽祭での歌唱も審査基準とされる新宿音楽祭には骨折した状態で参加し、
同じレコード会社のライバルだった細川直美に水をあけられるなど苦戦し、
かろうじて敢闘賞は獲れたものの受賞時、思わず腰を折ってしゃがみこんでしまい、
ちょっとした奇行沙汰になった。レコード大賞新人賞では惜しくも6番手で落選した。
1991年の発売シングル「赤い傘」から曲も書き始め、更にアーティスト性は強くなっていった。